ケイ上西 功一の経歴や現在 バンクーバー朝日軍や生い立ち,家族や子供は?

ケイ上西 功一の経歴や現在 バンクーバー朝日軍や生い立ち,家族や子供は?

第2次世界大戦前の27年間、カナダの西海岸を熱狂させ、人種差別に苦しめられていた当時の日系社会に、勇気や誇りを与えた、伝説の野球チームがありました。

バンクーバー 朝日軍

そのチームの名前は「バンクーバー朝日」と呼ばれ、1914年から1941年まで、カナダ・バンクーバーで活動していました。

2014年に妻夫木聡さんが主演を務め、話題となった映画「バンクーバーの朝日」の、原作となったチームですが、当時の選手達の唯一の生き残りの方が、現在もカナダで暮らしているそうです。

その方のお名前は、ケイ上西功一(かみにしこういち)さんとおっしゃいます。

今回はそんなケイ上西さんの経歴や現在、また「バンクーバー朝日」でのエピソードや家族についてなど、調べてみたいと思います。

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ケイ上西功一(かみにしこういち)のプロフィール 年齢や出身、生い立ちなど

それではまずは簡単に、ケイ上西さんの経歴についてご説明させていただきます。

ケイ上西功一

ケイ上西功一(ケイかみにしこういち)

生誕    1922年生まれ(95歳)

出生地   カナダ・バンクーバー

特徴    日系2世

ケイ上西さんは1922年、カナダのバンクーバーで生まれ、日本の教育を受けるために両親の故郷、広島で育ちました。

11歳の時に、父親が亡くなられた事を機に帰加。

旅館を経営する母親と、バンクーバーの日本人街であるパウエル街に住み、バンクーバー日本語学校に通われました。

食堂や旅館、銭湯などもあった街で、ケイ上西さんは日系2世として暮らされました。

ケイ上西さんが青年時代の頃の日系人達は、人種差別や過酷な低賃金労働に耐えながらも、独自のコミュニティーの中で暮らしました。

そんな中で日系人が作り上げた野球チームである「バンクーバー朝日」が、日系人達の人気や誇りとなっていました。

そしてケイ上西さんは、多くの少年がそうしたように、朝日軍に憧れを抱いて、野球を始められたのでした。

仏教会の青年リーグ、日本人リーグを経て、オールスターチームだったバンクーバー朝日に認められ、入部が決まったのはケイ上西さんが17歳の時でした。

当時の事をケイ上西さんは、「うれしくて眠れませんでした」と話しています。

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バンクーバー朝日軍とはどんな野球チーム?

ちなみにケイ上西さんが憧れ、その後入団された「バンクーバー朝日」とは、どんなチームだったのかご説明したいと思います。

「バンクーバー朝日」は1914年に結成されたチームで、初代の監督には宮本松次郎さんという方が就任しました。

「英語は話せなくても野球なら出来る」という信条のもと、15歳前後の日系2世の少年9人が選び抜かれ、猛特訓を開始。

宮本監督は、「大和魂と武士道精神を忘れるな」と語り、選手達にラフプレーや、審判への抗議を一切禁じました。

これは当時の、日本人社会と白人社会との間の軋轢(あきれつ)を、鑑みたものだと考えられています。

この結果、朝日軍は日系人だけでなく、白人からも応援されるチームになっていきます。

1918年にバンクーバー・シニアリーグに進出。

カナダ西海岸における強豪チームに次々と勝利を収めました。

1926年にはターミナルリーグ戦でアジア系カナダ人チームとして、初めての優勝を果たしました。

さらに1930年と1933年にも同リーグ制覇を遂げています。

ケイ上西功一(かみにしこういち)の選手時代と戦争後

ケイ上西さんがバンクーバー朝日に入団されたのは、1939年の事で、それから2年間、内野手としてプレーされました。

ケイ上西

2005年、カナダ日系博物館での『朝日軍遺産展覧会』のケイ上西さん

しかしその後、1941年から日本が第2次世界大戦に参戦した事で、選手達は戦時捕虜収容所や、強制疎開地などに送られ、バンクーバー朝日はチームとしての歴史を閉じる事になります。

開戦直前の1941年、親類を訪ねて母親と日本に滞在していたケイ上西さんは、宮島観光の際、灰色に塗られた貨物船が何十隻も沖に停泊しているのを見て、「異様な光景でした。もうすぐ戦争になることはわかっていましたね」と、戦後に述懐されています。

そして、このまま日本にいれば、兵隊に取られると心配した母親は、バンクーバーに戻る準備をされ、カナダに寄港する最後の船で、なんとかカナダに戻られたそうです。

収容地区でのソフトボール 妻との結婚や子供について

戦争が始まると、自由移動を申請したケイ上西親子は、ウィスラーの北東130キロのリルエットから、さらに東に入ったイースト・リルエットの日系人収容地区で、暮らし始めました。

70軒ほどの掘っ立て小屋に、日系人が300人以上暮らし、水も電気もない生活でした。

マイナス20度から30度になる冬には、家の中にも氷が張り、外では凍った木の枝が、破裂する音が聞こえたといいます。

フレーザー河からバケツで水を汲んできて、濁った水をこして飲んだと言い、「最初の2年くらいはとても苦労しました」と話されています。

その後みんなで百姓仕事を始め、近くの缶詰工場で1時間25セントで働きながら、周囲の青年達に声をかけ、ソフトボールチームを結成。

日系人収容区域から町に出る事は禁止されていましたが、偶然にも担当だった巡査がソフトボール好きだったことから、町のチームと試合をするようになります。

この出来事がきっかけで、町に行くことも出来るようになったそうです。

そして戦後の1947年、ケイ上西さんは野球したさでカムループスに移住され、カトリックの青年チームに入られました。

さらにオカナガンに住んでいた、同じ日系2世のフローレンス直子さんと結婚し、一男一女をもうけられました。

上西功一 妻・フローレンス直子

ケイ上西功一さんと妻のフローレンス直子さん

ケイ上西功一の現在 バドミントンや家族など

そしてケイ上西さんは結婚後、モーテルや国営のリカーショップを経営したそうですが、引退後はバドミントンを始められたそうです。

「スポーツでは排斥もなくルールが同じ。お蔭で知り合いも増え、いい仕事にも就けました」と、お話されています。

2017年2月現在、95歳である上西さんですが、92歳の時点での情報では、週2回バドミントンに通われて今までにメダルは何十個も獲得しているとの事でしたので、現在も元気にバドミントンに励まれているものと思われます。

人種差別や戦争に翻弄され、貧しい時代も経験されながら、スポーツやフェアプレーで希望を繋ぎ、前向きに生きてこられたその姿勢には、とても勇気付けられる気がします。

是非ともお体に気を付けて、これからも幸せに長生きしていただきたいですね^^

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