山本慈昭の娘や映画,記念館の場所は?中国残留孤児の父と呼ばれた男の生涯

6月15日放送のフジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」では、

「300人の父になった男!25年間4万通の手紙」

と題して、山本慈昭(やまもとじしょう)さんという方が取り上げられるようです。

正直筆者も山本さんについては存じ上げなかったのですが、番組予告を見ていると、第二次世界大戦中に満州国に渡り、妻と娘さんを失うなどの経験をされながらも、その後、中国残留日本人孤児の肉親捜しに尽力された方なのだそうです。

この記事ではそんな山本さんについて、生い立ちから「中国残留日本人孤児の父」と呼ばれるようになった経緯やその活動などをご紹介したいと思います。

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山本慈昭(やまもとじしょう)の生い立ちや経歴 満州に渡るまで

それでは、まずは山本さんの生い立ちや経歴、そして満州に渡る事になった経緯までを、簡単にご説明したいと思います。

山本慈昭

引用:http://sbc21.co.jp/blogwp/special/broadcast/777

山本 慈昭(やまもと じしょう)

本名     山本梅雄

生年月日   1902年1月25日~1990年2月15日(享年88歳)

出身地    長野県下伊那郡阿智村出身

学歴     比叡山専修院附属叡山学院卒業

経歴     僧、福祉活動家

山本さんは1902年(明治35年)に、長野県で生まれました。

8歳で出家し、長野の善光寺、比叡山での修行、ホノルルでの延暦寺別院創設を経て、1937年(昭和12年)に出身地である阿智村の長岳寺の住職となり、ここで生涯の大半を過ごすことになります。

しかし1945年(昭和20年)、山本さんの住む阿智村から満蒙開拓移民(1931~1945年まで大日本帝国政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州・内蒙古・華北に入植した日本人移民)の一団として「阿智郷開拓団」が送り込まれることになります。

そして、その子供達の教師役として、当時の国民学校の教員を兼職していた山本さんが指名される事になったのでした。

山本さんは不安を抱いていたそうですが、妻と2人の娘を連れ、教え子である国民学校の生徒達を引率して満州へ渡りました。

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満州赴任後、シベリア抑留~帰国まで 妻や娘、仲間との死別

山本さんの満州に滞在する期間は、当初は1年のみの予定でしたが、満州に渡ってから僅か3か月後、第二次世界大戦末期だった同年8月のソ連軍の侵攻によって、状況が一変しました。

開拓団の人々は戦火の中を逃亡する事を余儀なくされ、そして逃亡生活が1カ月続いた頃、太平洋戦争は終結。

敗戦国である日本人の男性達はシベリアに抑留されることとなり、山本さんも妻子と引き離されてシベリア抑留の身となってしまいました。

山本さん達日本人は、逃亡中は山中を歩き食料もなく、シベリアに抑留されてからも極寒の中、 過酷な労働をさせられたそうです。

そして終戦から2年後の1947年、山本さんは帰国。

郷里で家族と再会する事を楽しみにしていたという山本さんでしたが、待っていたのは家族ではなく、

妻と娘2人は死に、そして阿智郷開拓団の8割が日本に戻ることが叶わなかった。

という、あまりに辛い知らせでした。

阿智郷開拓団の団員は合計215人だったのですが、帰国出来た人は山本さんを含め僅か13人であり、山本さんの教え子たちの生存者も、当初の51人のうち、たった6人ということでした。

悲しみに暮れた山本さんでしたが、せめて仲間たちの遺骨を拾うためにと1964年に訪中します。

しかし、当時の中国の国務院総理だった周恩来氏は山本さんを歓迎はしましたが、遺骨の収集は認められませんでした。

これには当時就任直後だった佐藤栄作総理大臣が、中国の核実験や、日本共産党の大会に参加を望んだ北京市長・彭真氏の入国を拒否したことなどから、日本の新内閣は中国を敵視しているも同然と見られていたという背景があったようです。

しかし山本さんが日本に帰国した後、その後の運命を変える1通の手紙が届くことになるのでした。

帰国後の活動 中国残留孤児の肉親探し

山本さんの訪中後の1965年、山本さんのもとへ、一人の中国在住の残留日本人から手紙が届きました。

この手紙を書いた方は山本さんが訪中した事を何かで知ったようで、その手紙を読んでいくと、両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが詳しく書いてあり、山本さんは目頭が熱くなったといいます。

この事がきっかけで山本さんは、まだ生存している中国残留日本人孤児の存在を知り、また沢山の日本人が優しい中国人によって育てられている事を知ったそうで、孤児達の日本帰国救済運動に大きく踏み込んでいきます。

しかしその後、住職の仕事の合間に、厚生省、外務省、法務省などを回り、国会議員全員にも手紙を書いたそうですが、良い返事は得られなかったそうです。

それどころか、厚生省では孤児たちからの肉親捜しの依頼の手紙が20通以上も、棚に眠っている状態だったと言います。

また1969年には、阿智郷開拓団の生存者の1人が亡くなる2日前に、

「実は開拓団の8割が死んだというのは嘘だった」

と告白しました。

その方曰く、自分たちは子供たちの命を救うため、中国人達に引き渡し、後に帰国できた自分達は口裏を合わせて全員が死んだと嘘をついたのだと言うのです。

さらに山本さんの家族についても、

妻と次女は亡くなったが長女は生きており、また山本さんの教え子15人も生存しているはず

だと言ったそうです。

この話を受けて山本さんは、長女と教え子達との再会に希望を抱き、孤児捜しの使命感をますます強めていきました。

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中国残留孤児と肉親の再会や、山本さんの長女・冬子さんとの再会

1972年になると、日中国交正常化を機に、満州からの引揚者や関係者が山本さんのもとに集い、「日中友好手をつなぐ会」が結成されました。

山本さんを会長とする同会によって、中国の孤児たちとの手紙のやりとりや、日本の肉親たちの訪問などの活動が開始されました。

この頃から山本さんは「最後の1人を捜し出すまで」との誓いのもとに茶人帽をかぶり始めます。

寝る時と入浴時以外は常にこの茶人帽を被り、いつしかそれが山本さんのトレードマークとなっていきました。

そして同1972年、待望の残留孤児と日本の肉親との第一号となる再会が実現します。

この頃はまだ、中国残留孤児は世間では存在すら知られていなかったようですが、NHKや新聞各紙が孤児らの情報を取り上げたことで、孤児らの肉親探しは次第に本格化していったそうです。

そしてそんな山本さんの孤児に対する取り組みは、中国でも噂となって広まっていきました。

「日中友好手をつなぐ会」結成時は、身元の判明した孤児は僅か2名だったものの、地道な活動の末、1980年には177人にまで達するようになりました。

この活動が活発化していった頃、山本さんは既に70歳を越えていましたが、長野から東京までの長距離をものともせず、各省や国会議員を訪ね歩き、近しい方からは「いつ寝ているかわからないぐらい」と言われるほど、精力的に動き回っていたそうです。

さらに山本さんは1980年、中国現地で調査を行なうべく、「孤児慰問」と称して訪中調査を行ないました。

吉林省では約30人の孤児らと出逢い、彼らの肉親を捜せずにいることを謝罪し、彼らの親を最後の1人まで捜すことを誓ったと言います。

結局この時山本さんが聞き取り調査をした人数は300人におよび、大きな反響を呼んだそうです。

山本さんが「300人の父」と呼ばれる理由は、こうした300人を超える孤児達の肉親を探す事に尽力し、また多くの孤児に対し、第二の父親として愛情を持って接したからのようですね。

さらにこのとき参加した孤児の1人の協力によって、山本さんの長女の消息も判明しました。

2回目の訪中調査となった1982年、山本さんは黒龍江省でついに長女・冬子さんと念願の対面を果たしたのでした。

それは、山本さんが83歳の秋の事でした。

冬子さんには中国で長年一緒に暮らした家族がいた為、すぐには帰国出来ませんでしたが、後に永住帰国を果たされているそうです。

その後も山本さんらによる訪中調査は続けられ、1986年まで9回におよびました。

また、山本さんは来日する孤児たちの行き場を案じ、

「きょうから、私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください。」

と呼びかけていたと言います。

実際に山本さんは、自宅を「浮浪閣」と名付け、孤児たちや家族たちの宿泊用に開放しました。

一時は山本さん宅に身を寄せた孤児達は、のべ50人におよんだそうです。

その後「日中友好手をつなぐ会」により、長岳寺の傍に支援施設「広拯会館(こうじょうかいかん)」が完成。

日本での生活に必要な日本語や、生活習慣を教える場となりました。

2004年時点では孤児2世たち2世帯7人が生活しており、同年時点までに約200世帯を送り出したそうです。

そして中国残留孤児の肉親探しの一応の目処がついた後、1987年7月には、山本さんは北朝鮮の残留孤児の問題にとりかかるべく北朝鮮に渡りましたが、成果は得られず、さらに持病の喘息の発作に襲われ緊急帰国されます。

それでも病床においても、100歳まで生きて孤児のために尽くすと意気込んでいたそうですが、1990年2月15日、慢性呼吸不全のため88歳で逝去されました。

亡くなられる10日前には竹川英幸さん(大阪中国帰国者センターの理事長で、山本さんによって肉親に巡り合えた1人)にその後を託し、葬儀場は日本全国から集まった孤児で埋め尽くされたそうです。

また、孤児やその肉親たちから山本さん宛てに送られた手紙は4万通に達し、長岳寺の門前の山本慈昭記念館に保存されているそうです。

山本慈昭(やまもとじしょう)の記念館や映画

そんな山本さんの功績を讃えた記念館が、長野県下伊那郡に建てられているようですが、名称は「満蒙開拓平和記念館」と言うそうです。

基本情報は、以下となっています。

満蒙開拓平和記念館

住所:長野県下伊那郡阿智村駒場 長野県阿智村 711-10

開館:9:30~16:30

休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、第2・4水曜日

TEL/FAX:0265-43-5580

入場料:一般・500円(団体400円)、小中学生・300円(団体200円) ※団体は20名以上

ホームページURL:https://www.manmoukinenkan.com/

また山本さんの人生を描いた「望郷の鐘」という映画が2013年から製作され、翌2014年から日本各地で公開されています。

以下が、その映画のダイジェスト動画になります。

詳細は、以下の公式ホームページよりご覧ください。

「望郷の鐘」ホームページ

といったように、少々長くなりましたが、山本さんの行った活動やその生涯について、ご紹介させて頂きました。

その活動や、込められた思いは、とてもひとつの記事では書き尽くせないのですが、山本さんの大きな愛情と強い信念は、同じ日本人として誇りに思い、また見習わなければならないのかなと感じさせられました。