昭和に起こった大事件のひとつに、「浅間山荘事件」があります。
この事件は、1970年代初頭に活動していた日本のテロ組織・連合赤軍のメンバー5人が、浅間山荘の管理人の妻を人質に立てこもった事件だったのですが、警察と犯人の攻防や血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など、衝撃的な経過がテレビで生中継され、驚異的な視聴率を記録するなど注目を集めました。
また、後に逮捕された犯人たちによって明かされた、連合赤軍メンバー内でのリンチ事件「山岳ベース事件」なども、世間に大きな波紋を呼びました。
この記事では、そんな「浅間山荘事件」の、
- 事件発生までの経緯
- 犯人逮捕までの流れや、犠牲者
- 連合赤軍が起こした山岳ベース事件
- 浅間山荘事件を起こした犯人達の、その後や現在
などについて、探ってみたいと思います。
目次
あさま山荘事件発生の経緯
それではまずは初めに、「浅間山荘事件」と呼ばれる人質を利用して行われた、立てこもり事件の概要についてご説明したいと思います。
この事件が起こったのは、1972年2月19日~2月28日の間で、場所は長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所・浅間山荘でした。
1972年2月28日、
浅間山荘事件で、犯人の連合赤軍
グループと機動隊との攻防戦を、
テレビ各局が、午前10時前から
夜7時まで生中継報道。最終的に
メンバー5人全員を逮捕。人質と
なっていた山荘経営者夫人を、
無事救出。 pic.twitter.com/jip1iqxBjT— オダブツのジョー (@odanii0414) February 27, 2019
この事件を起こしたのは、1971年から1972年にかけて活動していた日本のテロ組織・連合赤軍でした。
連合赤軍とは、共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成された組織だったのですが、合流前の両派は連続強盗事件や猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れるなど、凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていたため、都市部などでは徹底的に警察に追われていました。
そして両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げ。
潜伏・逃避行を続けていましたが、やがて警察の山狩りが開始され、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進行。
やがてこの山岳ベースでは、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ猛烈な思想点検・討論が行われるようになり、その末に、思想改造と革命家になるための「総括」と称したリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が起こるなど、内部崩壊が進んでいました。
その後、同組織が直前まで使用していたベースの跡地が、警察の山狩りで発見された事をラジオで知った幹部は、群馬県警の包囲網が迫っている事を感じ、山越えにより隣接する長野県へ逃げ込むことに。
この時、最高幹部の森恒夫と永田洋子は、資金調達のため上京しベースに不在で連絡も取れなかったため、幹部の坂口弘を中心として決定されました。
森と永田もベースに戻るものの、2月17日に、山狩りをしていた警察官に見つかり、抵抗の末逮捕。
さらに、あさま山荘事件の犯人メンバー達は、逃亡の途中、警察の職務質問を受けますが、指名手配されていた坂口、植垣、青砥幹雄は指名手配されていないメンバー2人を残して、警察の隙をつき逃亡。
残された2人のメンバーは、逮捕されました。
また、装備の薄さや極寒期も影響して、犯人達は山中で道に迷い、長野県の佐久市方面を目指していたものの、結果的には長野県の軽井沢に出てしまいました。
しかし、当時の軽井沢は新しい別荘地で、犯人達の持つ地図には記載されておらず、そこが軽井沢だとは知らずに行動する事に。
2月19日には食料の買出しに出かけたメンバー4人が、軽井沢駅で逮捕されました。
上記のような経緯を経て、元々は29名いた連合赤軍メンバーは、12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕されて、浅間山荘事件の発生直前には、坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5名を残すのみとなっていました。
あさま山荘事件 立てこもりと人質救出&犯人逮捕まで 鉄球で山荘を破壊した
こうして逃げ延びた連合赤軍のメンバー5名は、2月19日の正午ごろ、軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、食料を漁るなどして休憩していましたが、捜索中の長野県警察機動隊がパトカーで近付いてきたため、パトカーに向けて発砲。
機動隊側も応戦しましたが、メンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき山荘を脱出すると、自動車がある家を探す途中で浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもりました。
人質を利用して、警察に逮捕されたメンバーの釈放や逃亡の保障を求める事や、車を使った逃亡なども計画されましたが、メンバー内での話し合いの結果、「浅間山荘に籠城」する事を決定。
また当時の浅間山荘には、充分な食料が備蓄されていたため、警察は兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始。
犯人や人質の親族による説得などが続きましたが、犯人達は親を利用したとして怒り、装甲車に発砲するなど攻撃を行いました。
また2月22日の正午ごろには、民間人の男性が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。
警察が「民間人だから撃たないように」と呼びかけるも、犯人達は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、威嚇発砲を行うものの、男性は後退せず。
さらに、機動隊にウインクをするなどした男性に不審を募らせ、遂に拳銃で狙撃。
男性は機動隊員に保護されたものの、容体が悪化し3月1日に死亡しました。
こうして、この事件における最初の死亡者が出ました。
その後も警察は、犯人達を説得しようと主張を訴えるよう要請しますが、犯人達は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と沈黙を貫き篭城。
並行して、電源を止めたり、放水、投石、ラジオの事件放送の規制など、警察側の犯人の追い込みも進んでいました。
そして、2月28日の朝には警察による投降勧告や最後通告が行われ、遂に10時には機動隊が突入を開始しました。
犯人との銃撃戦が始まり、また警察側はクレーンに吊った鉄球を用いて、山荘の壁や屋根を破壊していきました。
犯人達の発砲や鉄パイプ爆弾による応戦で、突撃した機動隊の多くの方が被弾したり重症を負う事態に。
その結果、特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視の2名が亡くなり、失明や聴力を失った人達など、26名の警察官が負傷しました。(ほか報道関係者1名が負傷。)
そして同日17時頃、機動隊が犯人と人質の集まるベッドルームに接近。
やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。
18時10分、犯人一斉検挙、人質無事解放となりました。
以下の動画などでも、事件の様子の一部が覗えます。
また、この模様をテレビの実況中継で見ていた犯人の一人・坂東の父親は、犯人逮捕を見ると席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見されたそうです。
山岳ベース事件 「総括」とは?
といった甚大な被害を生んでしまった浅間山荘事件でしたが、犯人達の逮捕後、その決死の行動は一部の人達にとっては「革命の序幕」と映ったのだそうです。
しかし、その後の犯人達の供述により、連合赤軍のメンバー内では、あさま山荘事件が起こる前に「山岳ベース事件」と呼ばれる、同士達による大量リンチ殺人が行われていた事が発覚。
その結果、元々居た連合赤軍29名のうち12名が地中に眠っている事が判明し、当時の社会に強い衝撃を与え、一部のあさま山荘事件の評価も地に堕ち、新左翼運動が退潮する契機となったと言われているようです。
同士の殺害の理由は、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判が、エスカレートするようになったものだったと言います。
最初は作業から外されるだけだったものが、間もなく長時間の正座、更には殴打、ついには死者を出すようになっていったそうです。
そして、1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人にも上り、その中にはメンバー同士で恋仲だったり、兄弟であったりした人達も居たとの事です。
この「総括」の対象者は連合赤軍リーダーの森恒夫が決定し、森恒夫を中心とした独断によって行われるようになっていきました。
「総括」の建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことも「総括援助」と称して正当化されていきました。
リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴い、被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための凍死であったと言われています。
という事で、浅間山荘事件は決して「革命の序章」などではなく、自己崩壊の挙句の幕引きでしかなかったようです。
あさま山荘事件の犯人の現在
また、あさま山荘事件を起こして逮捕された犯人達の現在は、以下のようになっているようです。
坂口 弘(さかぐち ひろし)
#春から自治医大
新入生のみんな、入学おめでとう!わたしからみんなに伝えたいことはひとつだけ。
なんとこの大学は、あさま山荘事件の年に設立されてるんだ!!!(写真 逮捕される連合赤軍幹部・坂口弘) pic.twitter.com/IgDelvzzJW
— 偽ネクタイ (@souryo910) April 4, 2019
生年月日 1946年11月12日(70歳)
出身地 千葉県
思想 毛沢東
連合赤軍のナンバー3。
2017年8月現在、確定死刑囚として東京拘置所に収監中。
1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際、釈放リストに名前が挙がるものの、自ら釈放を拒否。
「私の闘争の場は法廷」「もはや暴力革命を志す時期ではない。」との主張で。
坂東 國男(ばんどう くにお)
坂東國男
日本赤軍の軍事委員。
1947年生まれ。71年に赤軍派に参加し、M作戦を主導。後に連合赤軍となり、72年のあさま山荘事件で逮捕。
75年のクアラルンプール事件で釈放され、日本赤軍に加入。ダッカ事件に参加し、現在も逃亡中。 pic.twitter.com/r3cfgGPY84— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) March 31, 2019
生年月日 1947年1月10日(70歳)
出身地 滋賀県大津市
思想 マルクス主義
坂口弘の項目で説明したクアラルンプール事件で、超法規的措置により釈放。
国外脱出し、日本赤軍に参加。
現在も連合赤軍事件だけでなく、日本赤軍としてダッカ日航機ハイジャック事件に関与した罪も加わり、警察庁に指名手配中であると同時に、国際指名手配されているそうです。
公安当局によると、坂東は基本的に中東に拠点を置き、中国・ルーマニア・ネパールでの入国の形跡が確認されているものの、詳細な消息及び生死は不明であるとの事です。
吉野 雅邦(よしの まさくに)
生年月日 1948年3月27日(69歳)
出身地 東京都杉並区
無期懲役の刑を受けて、1983年3月から現在に至るまで千葉刑務所で服役。
刑務所では「あさまさん」と呼ばれており、1998年時点では高齢者や体に障害を持つ受刑者を集めた所内の工場で「計算夫」という役割(工場内での受刑者の実質的な責任者)についていました。
加藤 倫教(かとう みちのり)
生誕年 1952年
出身地 愛知県刈谷市
山岳ベース事件で長兄が殺された時、弟の加藤元久と逃げだそうとしたものの果たせず逃亡の最中、あさま山荘に立て篭もり、警察と9日間に渡る銃撃戦に参加。(あさま山荘事件)
事件当時は、弟とともに実名は伏せられて「少年A」と報道されました。
1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。
1987年1月仮釈放。
現在は実家の農業を継ぎ、また野生動物保護、自然環境保護の団体でも理事を務めているそうです。
また現在は自由民主党を支持し、自民党にも入党しているそうです。
加藤 元久(かとう もとひさ)
生誕年 1956年
出身地 愛知県
上記の加藤倫教の弟で、逮捕時は16歳であったため少年法で「少年B」と伝えられて実名は伏せられ、保護処分扱いとなったとの事です。
終わりに
という事で、昭和史に残る大事件である「あさま山荘事件」について、ざっとではありますがご説明させて頂きました。
1960年代以前の日本では、学生や労働者による政治運動や活動が盛んであったと言われており、そんな中、学生を中心とした新左翼諸派が活動を先鋭化させ、さらにその中の過激派によって、浅間山荘事件をはじめとして、多くの事件が巻き起こされたようです。
しかし、沢山の仲間内に被害者を生んだ山岳ベース事件や、警察官や民間人が犠牲になった浅間山荘事件など、今後同じような悲劇が起こらないように、記憶にとどめていく必要があるのかなと感じさせられました。