現在も「国境なき医師団」などをはじめ、世界中の紛争地域や貧困地域などで尽力されている医師の方は沢山いらっしゃいますが、第2次世界大戦前後のドイツでも自らの命を懸けて治療に当たった日本人医師が居ました。
その方の名前は肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)さんといい、医療活動をしていた現地・ドイツの人々には、没後70年が経った今も慕われているそうです。
今回はそんな肥沼さんの活動や生涯、現在も語り継がれる功績についてなど、調べてみたいと思います。
肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)の経歴とその生涯
それではまずは簡単に肥沼さんの経歴から掲載しておきたいと思います。
— ねたろう (@cQxPGoKcnpEOn4Y) February 13, 2020
肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)
生年月日 1908年10月9日 – 1946年3月8日(37歳で死去)
出身地 東京都八王子市
学歴 東京府立二中(現立川高校)卒業
日本医科大学卒業
活動 ドイツ・ヴリーツェン伝染病医療センター初代所長
肥沼さんは外科医であった肥沼梅三郎さんの次男として生まれ、自らも医師を志し、日本とドイツの大学で放射線医学を学ばれました。
第2次世界大戦前夜の1937年にドイツに渡り、ノーベル賞受賞者のアルベルト・アインシュタインに憧れ、放射線医学の研究者としてドイツへの留学を熱望した肥沼さんは、29歳の時、名門・フンボルト大学へ留学をされます。
ヒトラー率いるナチスドイツによる独裁が進む中、懸命に学ばれた肥沼さん。
しかし第二次世界大戦の戦況が悪化し、大使館からは日本人に帰国を促す指示が出ますが、肥沼さんはドイツに残る道を選択されました。
そしてこの選択こそが肥沼さんの人生を決定付けることになるのでした。
肥沼信次のドイツでの活動と病気・死因
大学での実験や研究を終えられた肥沼さんは、ベルリンを離れ、ドイツ北東部、ポーランドとの国境に近い、ヴリーツェンという都市にやってきます。
しかし、肥沼さんが来た頃のヴリーツェンでは、チフスが猛威を振るっていました。
十分な薬もない中で、チフスに苦しむ現地の人々の治療に懸命に当たられたという肥沼さん。
皮肉なことに、やがてご自身もこのチフスに罹患して亡くなるのですが、まさに医師として人として命懸けで救命に努められたのでした。
そして37歳という若さで、肥沼さんはその生涯を終えられました。
— ねたろう (@cQxPGoKcnpEOn4Y) February 13, 2020
死の直前には、看護師に「桜が見たい」と言い残したといわれる肥沼さん。
後にヴリーツェンには、日本から桜の木が贈られました。
ヴリーツェンでの評価や長年日本に偉業が伝わらなかった理由
そんな肥沼さんの功績は、肥沼さんが亡くなられてから70年経った今でも、肥沼さんが当時救った患者さんの御子息を通して語り継がれていると言います。
しかし、その功績が日本でも知れ渡るようになったのは1989年になってからで、それまで知られなかった理由とはベルリンの壁による東西ドイツの分断の歴史がありました。
当時、社会主義国家であるソ連の支配下であったヴリーツェン市は、その事実がヴェールで内側に隠されていました。
まさに肥沼さんの人生は、そういった戦争や激動の社会情勢にも翻弄されたのもだったのです。
そしてベルリンの壁が崩壊して3年経った1992年に、ようやくヴリーツェン市から肥沼さんに名誉市民の称号が与えられたのでした。
感想
という事で、現在もドイツで慕われ続ける肥沼さんの生涯や活動、世間の評価などについて調べてみました。
戦争中に帰国をせずにとどまったり、自らの感染をかえりみずにチフスの救命に当たられたりと、その勇気と使命感に溢れる行動はなかなか真似できる事ではないと思います。
現在でも世界各地では沢山の悲劇が繰り返されていますが、その一方でこういった方々の命を賭した尽力がある事も忘れてはいけないのかなと再認識させられました。
肥沼さんの功績と勇気を讃え、今此処に生きていることに感謝したいなと思います。