1988年から1989年にかけ、東京・埼玉で相次いで発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺○事件。
事件の奇異さや、犯人・宮崎勤元死刑囚(以降、宮崎勤または宮崎と略表記)の異常な行動が日本中を震撼させましたが、現在でも度々メディアに取り上げられるほど、日本の犯罪史に残る大きな事件となりました。
この記事では、宮崎勤の死刑執行の様子や自宅の現在などを中心に、迫ってみたいと思います。
東京・埼玉連続幼女誘拐事件の概要
それではまずは初めに、東京・埼玉連続幼女誘拐殺○事件について、簡単にご説明させて頂きます。
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— Muscat(マスカット) (@muscat_fujitv) October 4, 2017
この事件は東京と埼玉で発生し、1988年8月~1989年6月の間に4人の女児(4~7歳)が誘拐後に殺害されました。
いずれも宮崎勤(みやざきつとむ)という男が犯行に及び、女児に声をかけ、車に乗せて誘拐し、首を絞めて殺害しました。
宮崎は3件の犯行後、1人目の女児Aちゃんの家に紙片や遺骨を送り、後日、今田勇子という名前で朝日新聞東京本社とAちゃんの家に「犯行声明文」を送ります。
さらにAちゃんの葬儀後には、「告白文」を送付。
その内容は常軌を逸したもので、当時の殺人罪の公訴時効まで逃げたいなどと書かれていたと言います。
内容については、以下の記事を参照ください。
その後、宮崎は4人目の女児を誘拐し殺害。
さらに新たなターゲットを狙い、1989年7月に東京・八王子で女児を誘拐し、猥褻な写真を撮ろうとしているところを現行犯逮捕され、一連の事件が解明されていきます。
捜査員の取り調べを受けた宮崎勤は、同年8月から9月にかけて、上述の4人の女児の殺害を自供。
この頃に受けた簡易精神鑑定で、宮崎は「精神分裂病(現在は統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」と診断されます。
その後、1992年12月から行われた3人の鑑定医による再鑑定では、1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害と異なる鑑定結果を出したとのことです。
宮崎には1997年4月に第一審で死刑判決が出され、最終的に2006年1月に最高裁で死刑が確定。
そして2008年6月17日、東京拘置所で死刑が執行されました。
(本項の情報参照元:wikipedia、ホウドウキョク、など)
宮崎勤(みやざきつとむ)の生い立ちや人物像 動機は
続いては、宮崎勤の生い立ちや人物像について見ていきたいと思います。
— ねたろう (@cQxPGoKcnpEOn4Y) April 1, 2019
宮﨑 勤(みやざき つとむ)
生年月日 1962年8月21日
死没 2008年6月17日(45歳没)
出身地 東京都西多摩郡五日市町小和田(現・東京都あきる野市小和田)
家族 祖父、祖母、両親、妹二人
参照:wikipedia
宮崎は東京都西多摩郡(現・あきる野市)で、地域新聞会社を経営する裕福な一家の長男として生まれました。
宮崎家は、曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を務めるなど地元の名士だったそうです。
宮崎は幼い頃から、手首を回せず手の平を上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」に罹患し、これが幼少~青年時代に負い目となっていたようです。
小学校時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中で、苦手な科目もあったものの成績は上位。
しかし高校時代には、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで落ち、また同級生は「暗く目立たない少年だった」と宮崎の印象を語っていたそうです。
その後、宮崎はは短期大学に進学。
パズルに没頭していたそうですが、引っ込み思案で影の薄い存在となっていたようです。
短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。
しかし、勤務態度や評判は非常に悪く、およそ3年後、神奈川県への転勤を勧められるも、宮崎は拒否し自己都合退職しました。
以降は、両親の勧めで簡単な家業の手伝いをしながら、数多くのビデオサークルに加入し、国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集。
ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画や注文をするため、仲間から嫌われていたとも言われています。
(本項のここまでの情報参照元:wikipedia)
上記が宮崎勤の主な経歴ですが、起こした事件の奇異さや宮崎本人が要領を得ない供述を繰り返していたことから、完全な動機は現在も不明と言われていて、その人物像や精神状態も同様と思われます。
一連の事件で、宮崎は女児に対し、裸にして写真を撮ったり、遺体をビデオ撮影したり、切断しており、素人の筆者的には特異な性癖を持っているか、精神状態が正常ではないように感じます。
ちなみに宮崎本人は、幼女を誘拐した動機について、
あくまで理性として、かわいがりたい。そばに置く間は自分の子供であると…
と語り、さらに子供が欲しい理由については、
(大人の女性に)相手にされないから
と、大人の女性に相手にされないから、幼女に手を出したという説明をしていたようです。
(参照:blogos.com)
また宮崎の自宅の家宅捜索では、部屋から6000本近いビデオテープや漫画などが見つかり、その中には暴力的、性的、猟奇的な内容のものもあったものの、実際はジャンルに関係なく無作為に多数の漫画やビデオを収集していたようです。
(この中に、事件の被害者たちを撮影したビデオも含まれていたそうです。)
さらに宮崎は公判で、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」「覚えていない」「少女の遺体を焼いて食べた」など、不可解かつ身勝手な発言をするようになったと言われています。
(しかし逮捕後の取調べでは、「ネズミ人間」や「もうひとりの自分」などを宮崎は語っておらず、取調官側はこうした発言を「詐病」だと考えていたようです。)
他にも色々な情報がありますが、これらをまとめて、宮崎勤の人物像を一つにするのは極めて難しいと言えそうです。
宮崎勤の死刑執行の様子 逮捕から執行まで
また、宮崎勤の死刑に対する思いや、死刑執行時の様子はどのようなものだったのでしょうか?
まず宮崎は死刑確定後、その判決について、
あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる
引用:wikipedia
と述べていたようです。
また絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していました。
雑誌『創』の篠田博之編集長に宛てた手紙には日本の現行の死刑方法における批判がしばしば書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えていた。
引用:wikipedia
死に対する恐怖心はあったようですね。
また、宮崎は拘置所では抗精神病薬の投薬治療を受けていたそうですが、治療が十分でないためか症状は悪化していたと言います。(参照:blogos.com)
2007年4月第4月曜日に診察を受けたのですが、その日の夜(20時頃)から、それまでの投薬(のみ薬=こな薬)の分量より薬の分量が少なくなった。その後、普段私に聴こえてくる幻聴の主たち、つまり、私・宮崎勤を(私のおじいさんが倒れた月の1989年5月から)殺そうとしている得体の知れない(こわい)力を持っている者たちがその殺害方法を話し合っているのだが、その幻聴の主たちの人数が、それまでは10人ぐらいだったのが、今回は15人ぐらいに増えた。
(宮崎の2008年4月22日付の手紙)
引用:blogos.com
これについては、宮崎は裁判中も東京拘置所で幻聴があらわれていることや、継続的に投薬を受けていることなどをを訴えていたという情報もあります。(参照:wikipedia)
上記から、どこまでが精神疾患の影響だったのかの見極めはとても難しそうですね。
また、宮崎は拘置所で幾つかの特徴的な絵を描いたり、死刑確定後はアニメビデオを鑑賞していたそうです。
そして死刑の執行の際は、宮崎は冷静に執行を受け入れたと言われています。(参照:wikipedia)
一方で、ネット上では宮崎の発した「最後の言葉」は、
あのビデオ、まだ途中だったのにな…
だったと言われています。
もし、これが事実だとして、どこか現実感のない、死という重い事実に実感が湧いていない感じがします。
とすると、宮崎が冷静に死を受け入れたというよりも、取り乱したり暴れたりしなかっただけで、本人の発言にもあるように、最後まで、
夢の中
だったのかも知れませんね。
次ページでは、宮崎勤の自宅の現在や、事件の霊が出ると噂されるトンネルなどについて、探ってみたいと思います。