4月19日放送のフジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」で、ある元日本人捕虜のお話が紹介されるそうです。
その方の名前は永田行夫(ながたゆきお)さんとおっしゃり、第二次世界大戦終了後、ソ連の捕虜となった永田さんは、ウズベキスタンの首都・タシケントで、強制労働の末に立派な劇場を築き上げらたそうです。
今回はそんな永田さんをはじめとした、日本人捕虜達の劇場建設の物語と、現在もタシケントに咲き誇る美しい桜のエピソードをご紹介したいと思います。
永田行夫がナヴォイ劇場を建設した経緯
永田さんがウズベキスタンで劇場を建設する事になった経緯は、第二次世界大戦後にソ連の捕虜となり、強制労働させられた事でした。
永田さんは1945年の終戦を、当時の満州・奉天(現在の瀋陽市)で、第10野戦航空修理廠、通称第10野戦航空部隊の少佐・作業部隊長として迎えました。
その後、旧ソ連の捕虜となり、部隊兵と共に現在のウズベキスタン・タシケントへ送られました。
ソ連側から下りた命令は、ほとんど基礎工事しかできていなかった建設途中のオペラハウス・ナボイ劇場を革命30周年にあたる1947年10月までに完成させることでした。
ちなみに永田さん達が建設したナボイ劇場とは、地上3階建て、地下1階、1,400席を備えた壮麗なレンガ作りの建物で、旧ソ連時代ではモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並び称される、四大劇場の一つとされていました。
有名なオペラ歌手や、バレリーナなどが歴史を刻んできた、世界的にも有名な劇場といわれています。
劣悪な環境や過酷な労働
戦争が終わった1945年、9760余名がタシュケント市に移送され、大きな犠牲を払いながら数年にわたり都市建設に貢献しました。
その中でナヴォイ劇場の建設に携わったのは、永田行夫元陸軍技術大尉率いる450人からなるタシュケント第四ラーゲリー隊でした。
隊長の永田さんは、当時25歳でした。
— ねたろう (@cQxPGoKcnpEOn4Y) April 8, 2019
食事は常に不足し、栄養失調に陥り、南京虫(なんきんむし)にも悩まされました。
さらに月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れ、冬はあまりの寒さに、建設現場の足場板を持ち帰り部屋の薪にするも、バレて厳禁になるなど厳しい環境だったそうです。
ウズベキスタンに送られた日本人は25113人でしたが、わずか2年で813人の犠牲者が出たと言われていますので、それだけ過酷な環境だったと想像出来ますね・・・。
しかし永田さんは、「全員で無事に生きて帰国する」という目標を決して諦めなかったと言います。
そしてもうひとつ、
生きて日本に帰って、サクラを見よう。
という言葉を、作業者同士で互いに掛け合い、過酷な作業に取り組んでいたそうです。
しかし、劇場が完成した2年後の1947年には、450人いたラーゲリ隊のうち79人が帰らぬ人となってしましました。
ナボイ劇場の完成とウズベク人の評価
そんな永田さん達の努力や犠牲の末に、ナボイ劇場は予定工期を大幅に短縮し、わずか2年で立派に完成を迎えました。
ウズベキスタンの観光地のひとつに,ナボイ劇場があります。1947年に完成した壮麗な建築で,第二次世界大戦後タシケントに抑留された日本人約500名がその建設に従事しました。カリーモフ前大統領の指示により,1996年6月,劇場の北面の壁にこの事実を記録に留めるためのプレートがはめ込まれました。 pic.twitter.com/Ak5dR0ClTg
— 中央アジアとゆかいな仲間たち (@CentralAsiaplsJ) February 18, 2019
きれいな天井の模様、繊細な彫刻など、全て日本人抑留者が細部にまで拘り、妥協する事なく作り上げたものでした。
— ねたろう (@cQxPGoKcnpEOn4Y) April 8, 2019
そんな強制労働をさせられている身分にも関わらず、真剣に責任感を持って仕事を成し遂げた日本人に、やがて現地のウズベク人も好意と尊敬の念を持ち始めました。
ウズベキスタン中央銀行副総裁のアブドマナポフさんは、子供の頃、日本人が働く姿を見たことがあるそうで、以下のようなエピソードを語っています。
いつも疲れて帰ってくる日本人抑留者を見て、(同情した少年時代のアブドマナポフさんは、)友人と一緒に幾度も宿泊所に自家製のナンや果物を差し入れに行った。
すると数日後には、必ず同じ場所に精巧に作られた手作りの木工玩具が置かれていた。
強制労働で疲れ果てた抑留者という身分だったにも関わらず、受けた恩に精一杯の謝意を表明しようとした日本人抑留者の行為は、いつしか道徳的規範として、ウズベク人の間で語り継がれるようになっていったそうです。
ナボイ劇場の完成後 地震からタシケントの住民を救った
そして年月は流れ、ナボイ劇場完成から20年後の1966年4月26日、タシケントの街をマグネチュード8の巨大地震が襲いました。
この大地震で、タシケントの建造物の約3分の2が崩壊したといいます。
しかし周囲の建物が瓦礫の山になってしまった中、ナヴォイ劇場は全く変わりなく凛として立ち続け、タシケント住民は日本人への畏怖と敬意の念を持ち、見上げたそうです。
そしてナヴォイ劇場は、被災者の避難場所として多くの人命も救いました。
そういう経緯もあってか、多くのウズベク人が子供の頃、母親から、
日本人のように勤勉でよく働く人間になりなさい
と言われて育ったと言われています。
桜公園
また、ソ連時代、日本人墓地をつぶして更地にするように、という指令が出されました。
ソ連政府は、捕虜使役で劇場が作られたことを隠蔽するために、このような指令を出しましたが、ウズベキスタンの人達はこの指令を無視しました。
ここは日本人が眠っているのだから。
と、墓地を荒らさずに綺麗な状態に守ってくれました。
そこでウズベキスタン独立後、中山恭子特命全権大使がウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたいとお願いしたそうです。
スルタノフ首相(当時)からは、直ぐに以下のような答えが返ってきました。
ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。
これまで出来ていなかったことは大変はずかしい。
さっそく整備作業に取りかかります。
さらにウズベキスタンでも呼応するように、素晴らしい提案がありました。
それは、コジン・トゥリャガノフタシケント市長(当時)からの、
建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか。
という提案でした。
そして中山恭子大使の夫・中山成彬元国土交通大臣が、日本さくらの会に交渉し、 日本から桜をウズベキスタンに寄贈したそうです。
現在、ウズベキスタンの日本人墓地と、中央公園には、
日本から寄贈された1900本の桜の木が、 毎年美しい花を咲かせているそうです。
タシケント中央公園の桜
ウズベキスタンに咲く桜(大使館前)
永田行夫の生涯
永田さんは帰国後、岡村製作所で役員まで勤め上げ、2人のお子さんにも恵まれました。
そして2010年に、天国に旅立たれたそうです。
永田さんが帰国後、”第4ラーゲル会”が結成され、1949年に第1回を開催。
以降、永田さんが亡くなる直前の2009年まで、年1回開催されました。
この”第4ラーゲル会”とは、収容所(ラーゲリ)で顔なじみだった昔の仲間が、温泉に泊まり、ひと晩宴会を開くというものでした。
後世に日本の恥となるような建築は作らない。その上で、全員が元気に帰国すること。
という思いで、ナボイ劇場の建設にあたったという永田さん達の姿は、日本人の誇りといえるでしょうね。
永田さん達のナボイ劇場建設についての、一連のエピソードは以下の動画にもまとめられています。