柳恵子の治療はサンフランシスコで行われ現在の病状は?闘病の経緯は?

柳恵子の治療はサンフランシスコで行われ現在の病状は?闘病の経緯は?

5月2日放送の「ザ!世界仰天ニュース」では、突然身体が勝手に動いてしまうという病気に悩まされた、柳恵子(やなぎけいこ)さんという日本人女性が取り上げられるようです。

症状が似ていることから、1970年代に公開されたホラー映画「エクソシスト」の少女も同じ病にかかっていたと言われているようですが、この病気は抗NMDA受容体脳炎と呼ばれる病気になります。

今回は、柳恵子さんが抗NMDA受容体脳炎を発症した経緯や治療の経過、また現在の姿などについて探ってみたいと思います。

柳恵子(やなぎけいこ)の経歴や抗NMDA受容体脳炎発症の経緯

それではまずは、今回のお話の中心人物である、抗NMDA受容体脳炎を発症された柳恵子さんの経歴や、発症までの経緯をご紹介したいと思います。

抗NMDA受容体脳炎:克服女性が米で医師らと涙の再会 [写真特集6/6] | 毎日新聞
ICUの担当医から入院当時の話を聞く柳恵子さん=2017年3月10日、家族提供

柳さんは中学では吹奏楽、高校では合唱部で活躍し、幼いころから大きな病気をしたことがない「健康優良児」だったそうです。

映画などの特撮に興味があった柳さんは、高校卒業後の2009年、特撮の本場であるアメリカ西海岸の短大に留学しました。

そして恐ろしい病気・抗NMDA受容体脳炎の初期症状は「風邪」のようだったそうで、柳さんは頭痛と高熱を訴え、自宅近くの病院を受診しました。

11年9月に入学したサンフランシスコ州立大での試験勉強で寝不足も続いていた事もあり、この時は「風邪」だろうと診断されたのでした。

当時ルームシェアしていたアメリカの友人によると、当時の柳さんは話の途中、言葉を忘れたり問いかけに反応しなかったりと、いつもと違う様子だったと語っています。

そしてしばらくの日数が経過した10月29日、

「頭が痛い」「死んじゃう、死んじゃう」

と、自室で苦しみ始めた柳さんに、尋常ではない違和感を感じ、友人が連絡した通院中の病院からの要請により、救急車で総合病院に運ばれ、柳さんは入院する事になりました。

治療はまず、サンフランシスコで行われた

柳さんが入院後、日本の家族の住む自宅へ国際電話があったのは2日後の事でした。

病院からの連絡内容は、

原因を調べるために検査用の髄液を採りたい。患者(柳恵子さん)に判断能力がないので連絡した

というものだったそうで、柳さんのお母さんである公子さんは面食らったと言います。

母・公子さんは急いで渡米し、病院へ駆けつけました。

その時の柳さんは、病室でベッドに座っていましたが、まるで寝起きのようで、目は開けていて意識もあるように見えたものの、公子さんを認識出来なかったそうで、他人に対するような応対だったといいます。

その後も普通に友達と会話していたかと思えば、突然お母さんに抱きついたり、柳さんは不安定な状態が続いたといいます。

そんな中、柳さんの状況が一変したのは、入院1週間後の11月6日で、激しいけいれんに見舞われ、ICU(集中治療室)で人工呼吸器を装着するほどの状態に陥りました。

脳や神経系の病気が疑われ、内科から神経内科に主治医が交代。

この時点での見立ては「ウイルス性の髄膜炎」という判断を受けました。

しかし検査の結果、「抗NMDA受容体脳炎」と判明します。

抗NMDA受容体脳炎

「抗NMDA受容体脳炎」の典型的な症状とは、発熱や頭痛など風邪のような症状に始まり、数日で幻覚や幻聴、妄想などの精神症状が表れます。

さらにけいれん発作や意識障害を伴い、昏睡(こんすい)状態に陥り、呼吸が難しくなり、人工呼吸器の装着を余儀なくされることもあります。

昏睡状態にもかかわらず、本人の意思とは無関係に手足や顔が異常な動きをする「不随意運動」もこの病気の特徴で、8割の患者は発症から2年以内に、援助なしで歩けるまでに回復する一方、死亡率は7%程度とも言われているようです。

治療は、まずは抗体を抑え込むこと。

抗体を作らないよう、卵巣に腫瘍があれば早期に摘出し、免疫反応が起きないようにする事が必要だと言われています。

しかし、柳さんの卵巣に腫瘍は見つかりませんでした。

治療はいっこうに奏功せず、体温も38~42度の高熱が続き、治療開始から半年以上が経過してもICUから出られませんでした。

意思とは関係なく、体の異常な動きが続き、2012年夏、遂に主治医は家族に告げました。

腫瘍はないが、卵巣を取るしか方法がない

女性にとって卵巣を失うことは、妊娠の機会を失うことになります。

母・公子さんは返事を保留したまま帰国し、日本の第一人者である亀井聡・日本大教授に意見を求めました。

意識が回復しない本人に意思確認は出来ず、お母さんは苦悩されたようですが、家族での話し合いの結果、最終的に両親は摘出手術を決断されました。

そして12年7月、左右の卵巣を摘出。

柳さんが22歳の時でした。

すると高熱は治まり、抗体の数値も改善。

8月にはICUから一般病棟に移り、9月には人工呼吸器が外されました。

そして発症から1年後の12年10月。

柳さんはチャーター機で帰国を果たし、さいたま赤十字病院にいったん入院した後、翌月には埼玉精神神経センターの神経集中治療病棟を経て、特殊疾患療養病棟に転院しました。

日本に帰国後も治療は継続

しかし、不随意運動は治まるどころか、日本のルールで投薬量を減らしたことによって、むしろ激しくなってしまいました。

ベッド上で飛びはねるなどの発作で、エネルギーの消耗は相当なものになり、167センチの身長だった柳さんは、体重が58キロからアメリカで33キロに減り、帰国してさらに「ガリガリ」になってしまったのでした。

そうした症状が暫く続いたものの、柳さんは13年2月ぐらいから、家族が見れば目の動きや力で、意識を回復しつつあるように見える状態になっていきます。

そして同年末にはベッドを降りて歩き始め、翌14年7月に退院。

その後は、てんかん発作を抑える薬とホルモン剤を服用しながら、自宅と通院でリハビリに取り組まれました。

柳恵子(やなぎけいこ)の現在の症状や活動は?

そんな柳さんは言葉も戻ってきて、会話も出来るようになり、2016年には自転車に乗れるほどに回復しているという事です。

週5日リハビリセンターに通いながら、生活訓練をされており、現在は就労移行支援を受けて社会復帰を目指しているようです。

また柳さんと母・公子さんは、この難病の実態を広く知ってもらおうと、脳炎患者たちの交流サイト「SAKURA」でも中心となって活動されているようです。

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